English

Profile story

はじめまして。産婆の信友智子です。

私が「春日助産院 秋月養生処」を開いたのは、2014年。母から継いだ市街地ど真ん中の春日助産院を、この田畑と裏山に囲まれた秋月の地に移しました。建物は、循環の象徴である茅葺きを使って新築したものです。私自身、この自然の営みの中であらためて「生きること」と向き合い、ようやく自分が理想とする「産婆」としての入り口に立ったと感じています。

春日助産院の思いは「with woman」。女性たちとともにある、ということです。その思いに至るまでにたどった私のストーリー、お時間あるときに読んでくださるとうれしいです。

「とりあえず、助産師になっておこう」

春日助産院は、母・嘉香が1965年、福岡県春日市で開設した施設です。なので、私は自宅が助産院という環境で育ちました。母は戦後、わんさか赤ちゃんが産まれていたベビーブームの時代に現・福岡赤十字病院で助産師を勤めた、熱血ワーキングウーマンでした。 時代も時代でしたから、いろいろな事情を抱えた家族を受け入れていた母ですが、根底にあった信念は、「子どもは国の宝」ということ。そして、「女性は産むようにできている。哺乳動物として、母乳は栄養だけにあらず」ということだったと思います。
そんな母の仕事ぶりを尊敬してはいたんですが、私自身はお産の仕事をやりたいと思ったことはなかった。でも、高校生になって進路を選ぶとき、「助産師になるなら大学の学費を出す」という条件を母から提示されて、「大学に行けるなら、とりあえず助産師になって結婚するまで働こうかな」という程度の気持ちで進学したんです(笑)。

やるからには自分の“存在感“を出したかった

助産師の国家資格を取った後は、大学病院に就職しました。ずっと母の助産院を「基本」として認識していたので、「最先端」を集めた大学病院でのお産はまったく別世界でした。
「なぜ、ここでは産後の女性がみんな、おしもの縫合の痛みで鬱々としているんだろう」「腰椎麻酔で産道が開きやすくなるのは分かるけど、ここまでの医療介入が本当に必要なのかな」…。大きなギャップに直面して、日々頭の中に「?」が蓄積されていきました。その頃から、私の助産への探究が始まった気がします。
母の助産院を手伝うために帰郷したのは、28歳ごろ。ある程度大学病院で経験を積んでいたので、今度は、母のやり方にところどころ時代錯誤を感じました。「今の時代、マザークラスは必要でしょう?」「モニタリングは導入しましょう」「新しいタイプの分娩台を購入しては?」…。いろいろ〝現代的〟な提案を母にしました。
当時の私には「最先端の技術やノウハウを春日助産院に取り入れるのが、私の存在意義」という自覚があったんです。母は「そんなことせんでもいい」と言いながら、私の邪魔はしなかった。やるからには自分が納得するスタイルを作っていきたいと、さまざまな勉強会に参加して情報収集を始めました。

懸命になるほど空回りした思い

出産のラマーズ法、ソフロロジー、食養としてのマクロビオティック…。たくさん吸収して、習ったことはすぐ妊婦さんたちに伝えていきました。
ところが…全然うまくいかなかったんです。「教えてあげたい」という自分の一生懸命な思いとは裏腹に、全然妊婦さんたちに響かない。響かないどころか、中には「ここで産む自信がなくなったので、クリニックに移ります」と去っていく人まで…。
気づけたのはずっと後のことですが、当時の私はハウツーばかりを追っていた。女性たちが何を求めているかにじっくり向き合わず、「自分の仕事は、専門家として〝素人のお母さんたち〟に正しい情報ややり方を与えること」と勝手に背負い込んでいた。相手が腑に落ちないまま一方的に与えるのだから、助産にもっとも大切なラポールが築けなかったんですね。空回りは当然の結果だったと思います。

雷に打たれたような、衝撃的な出会い

転機は、1冊の本から訪れました。イギリスの文化人類学者であるシーラ・キッチンガーの編著を翻訳した「助産婦の挑戦」(日本看護協会出版会)の中で、シーラが引用した2500年前の老子の言葉に出会ったんです。
子が生まれるのを助ける助産婦よ。誇示せず、騒ぎ立てず、立派にやり遂げよ。こうなるはずだと考えるより、現に起こっていることを、楽に進めるように援助せよ。あなた方が先導しなければならないなら、母親が援助されながらも、自由と自主性を感じられるように先導せよ。そうすれば母親は、子が生まれたとき叫ぶだろう、「自分たちでやったんだ」と。
雷に打たれたような衝撃を受けました。「助産師さんありがとう!」ではなく、「私が産んだのよ!」というお産を叶えるのが助産師なんだ。妊婦さんが、自分の力でゴールできたと心底感じられるよう、徹底的に黒子に徹するのが助産師なんだー。まさに天地がひっくり返ったように、助産の捉え方が一変した瞬間でした。

「シーラたちに学びたい」。イギリス留学へ

同じころ、あるセミナーで「アクティブ・バース」という世界にも出会いました。アクティブ・バースとは何なのか、直感的に教えてくれたのは1枚のモノクロ写真でした。女性が、背後を支えられながら、半スクワットの姿勢で出産しているシーン。赤ちゃんの頭が出てきている中、その表情は恍惚として、喜びにあふれていた。「女性」という存在が魂全開で輝くエネルギーを感じて、その瞬間から涙があふれて止まりませんでした。
私がそれまで妊婦さんに指導してきたことは、女性がいかに楽に産むかを助ける方法論。でも、「ありのままのあなたを受け止めるよ」というアクティブ・バースは、まったく立ち位置が違った。泣こうが叫ぼうが、オーガズムを感じようが、その女性のレスポンスそのままを受け止める助産のあり方だったのです。
女性は本来産み方を知っている。価値観、信条といったバックグラウンドを含め、その女性が1人の人間として守られ、主体的に産む。それがアクティブ・バースの世界でした。
「私がやるべき何かがある」。衝動に駆られました。老子の言葉を伝えてくれたシーラや、イギリス政府への報告書で「女性中心のマタニティケア」を提唱し、世界に影響を与えた助産師レズリー・ページに直接学べるロンドンのテムズバリー大学のことを知り、すぐに留学を決めました。

「with woman」の産婆でありたい

今、私は秋月を拠点にホームバースを中心にしたサポートを行なっています。女性自身が望むお産を叶えるための伴走者として、女性の心や身体と向き合いながら、価値観や信条といった「女性の人権」「EBM(根拠に基づく医療)」「その人を取り巻く環境」を軸に適切な判断ができるよう、私自身も学び続けています。 助産師を意味する「midwife」という言葉は、「with woman」が原義とされています。私が目指すあり方はこの言葉に凝縮されていて、一言で表すと「イコーリティ(平等)」。ただただ、その女性に寄り添う1人の人間として、同じ時間を生きる存在でありたいと思っています。
産婆は、人の究極の「命の活かし方=生活」に関わる存在。その人や家族、コミュニティの光だけでなく、闇も見ないといけません。もし、そこにある「闇」に気づいたとき、一筋の「光」を灯す方法はないだろうかと寄り添い、泣くも笑うも共にするのが「with woman」だと捉えています。
女性たちから始まる縁を繋いでいく生き方をしたい。お産が終わったら「さようなら」ではなく、いつでもお茶飲みに立ち寄ってもらって、何年会ってないとしても喜怒哀楽を分かち合える、そんな存在でありたいと思っています。勤務時間で区切るような「職業」ではなく、生き様そのものの「存在」。だから、自分の肩書きには「産婆」という言葉を好んで使います。

「ただいま」ってふらりと寄ってもらえる養生処、産婆になれたら、それが私の幸せです。


PAGE UP